難聴が分かったからといって、私の生活はほとんど何も変わらなかった。
変わったことと言えば、学校の教室の座席が、右側寄りの列の一番前の
指定席になったぐらいである。
そして、しばらくは病院通いの日々が続いた。病院でやることは決まって
聴力検査と医師の診察のみ。
原因も分からず、治る見込みもなく、これからの見通しが立ちにくい中で、
両親はきっと深く深く悩んでいたのだろうが、当の本人はそんなこと知る由も
なく、学校がサボれるからという理由だけで病院に行くのが好きだった。
ある日、診察を待っていると、母に「ほら,見てごらん」と言われ、促された方に
目を向けた。見ると、同じ待合室に座っているおばあさん達が
手をひっきりなしに動かしていた。
「あれはね、手話って言うんだよ。耳の聞こえない人が使うんだよ」と
母は教えてくれた。けれども、その時は「ふぅ~ん」と他人事のように感じていた。
自分の聞こえと、手話が、どうしても結びつかなかった。
「耳が聞こえない人」というのは、全く聞こえない人のことで、自分とは
違う人達のことなのだと思っていた。手話を使う自分が想像できなかった。
聞こえる人達の中で生活することが当たり前になっていると、しばしば自分自身も
聞こえる人のような感覚に染まってしまう。ましてや、当時の私のように、聴力も
それほど重くなく、音声で日常のやりとりが(あらかた)できていると、その錯覚は
強くなる。
また、私は大学に入るまで、自分と同じような聴覚障害のある人に
出会ったことがなかった(先述した手話のおばあさんは別として)。
聞こえない・聞こえにくい人は自分だけで、他の人はみんな聞こえている。
言わば、マジョリティに染まっていくマイノリティだった。こうしたこともあって、自分の
「聞こえにくさ」をどう捉えるのかは難しいことだっただろうと考える。
「聞こえにくい」とは、何とも客観視しにくいものである。
当然、当時小学生の私は、「聞こえにくい」ということがどういうことか分かって
いなかったのだと思う。自分に聞こえてくる音が全てだと思うだろうし、「今のは
聞こえなかったから分からなかったんだ」ということが分かる経験が、極端に少なかった。
幸い、学校での人間関係も良好だったために、悩むことも少なかったのかもしれない。
なんてことを書いていると、今回は分析チックになって少しお堅い文章になってしまった。
小学校時代は比較的のんびり過ごせた方だと思うが、それでも、聞こえにくかったことで
失敗してしまったほろ苦い経験もある。特に習い事での経験である。
次回はそんな思い出をお話ししようと思う。
20代。(おそらく先天性の)両側進行性感音難聴である。 難聴が発覚したのは、
小学校2年生の時。発覚時の聴力は、右耳が90dB,左耳が45dB程度。そこから
徐々に聴力が低下し、2014年時点では、右耳が115 dBスケールアウト、左耳が
90dBである。ろう学校への通学経験はなく、大学を卒業後、医療系職の資格
取得を目指して専門学校へ進学。その後、障害に関わるお仕事をしている。
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