そんなわけでこうなりました

 

言語聴覚士の先生のもとへ通い始めて、程なく、補聴器を装用してみようと

いうことになった。その時の聴力レベルは、左耳が60dB前後、右耳は100dBを

超えていただろうか。右耳はもう、小さいころから聞こえていなかったし、「右耳を

使って聞く」という習慣もなかったため、補聴器は左耳だけで試してみることになった。

中学1年生の春休み。母と2人で、初めて、関東の病院の耳鼻科へ

受診に行った。そして、問診や聴力検査など一通りのことを受けた後、

私は、お医者さんでもなく、看護師さんでもない、何かの「先生」らしき

人の元へ連れて行かれた。

 

先生は、「言語聴覚士」の先生だった。

聴力検査室のような厚い壁で囲まれたその部屋の中には、大きな

スピーカーや、ぬいぐるみや、小さい椅子とテーブル、そして、

見たことのない機械がたくさん置かれていた。

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小学校を卒業する前に、クラスメートに自分の聞こえについて話したことが

きっかけとなり、中学校に入学した後も、そうしようと決心していた。

期待で胸を膨らませて入った中学校。私立の学校に入ったため、小学校

時代の知り合いはほとんどいなかった。だから、なおさら自分の耳のことに

ついて話さなければならないということを、自分なりに自覚していた。

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前回で小学校時代編が終了し、今回から中学校時代へ突入の予定だったが、ちょっと

一息ついて最近あった出来事をお話しすることにする。

今年のお盆休みの間、私も例外ではなく、のんびりと実家に帰省した。

そして、リフレッシュを終え、再び自分の家に帰るために空港へ向かった時のこと。

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6年生になり、小学校生活も終わりに近づいてきた頃、担任の先生からこんな提案があった。

「みんなの前で1人ずつ自分のことを話してみよう。」

さらに先生は、

「○○さん(私のこと)のお耳のことだってみんな知りたいしね!」

と加えた。

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前回(「スイミング」)の話の最後に、「適応していく力」と書いた。

聞こえにくさ・聞こえないことを補うためには、やはり「見る」ことから情報を得ようとする。

これは、頑張って身につけるものというよりは、それまで本人が生活をしてきた

経験の中で、自然と身についてくるものだと思う。

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小学校時代、私はいくつかの習い事に通っていた。

そして、習い事の先生達には難聴のことを伝えていなかった。

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難聴が分かったからといって、私の生活はほとんど何も変わらなかった。

変わったことと言えば、学校の教室の座席が、右側寄りの列の一番前の

指定席になったぐらいである。

 

そして、しばらくは病院通いの日々が続いた。病院でやることは決まって

聴力検査と医師の診察のみ。

原因も分からず、治る見込みもなく、これからの見通しが立ちにくい中で、

両親はきっと深く深く悩んでいたのだろうが、当の本人はそんなこと知る由も

なく、学校がサボれるからという理由だけで病院に行くのが好きだった。

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いつからか、右耳が聞こえないのは当たり前のことになっていた。 右耳が聞こえていない

ことには気付いていた。

 

でも、普通に会話もできるし、困ったこともないし(何に困っていたのかも 分かって

なかったのだろうが)、あえてきこえないことを誰かに言う必要もないと勝手に判断し、

のらりくらり過ごしていた幼少期。

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