小学校を卒業する前に、クラスメートに自分の聞こえについて話したことが
きっかけとなり、中学校に入学した後も、そうしようと決心していた。
期待で胸を膨らませて入った中学校。私立の学校に入ったため、小学校
時代の知り合いはほとんどいなかった。だから、なおさら自分の耳のことに
ついて話さなければならないということを、自分なりに自覚していた。
入学式後すぐにオリエンテーション合宿があり、そこでクラス全員が
1人ずつ自己紹介をすることになった。
そこで、私は、難聴があること、特に、右耳が聞こえないことを説明した。
けれども、聞こえないと言っている当の本人はぺらぺらと話せているし、
クラスメートとのおしゃべりも滞りない。
みんなと同じような位置に集まって先生の話も聞いている。
どう見ても聞こえない人のようには見えない。
これがきっと、私の聞こえにくさについて、周りが分かりにくかったこと
だろうと思う。そして、私自身も、難聴の説明はしたところで、
何が変わるのかとか、そんなこと1つも考えていなかった。
どう変えるべきなのかも、いまいちピンときていなかった。
変わったのはやっぱり、教室の座席の位置だけ。
結局、ほとんど何も変わらないまま、中学1年生も3ヶ月を過ぎた頃。
定期検診で、左耳の聴力が少し下がっていることが分かった。
聴力レベルで言うと、50~60dBの間くらい。
普通の話し声がやや聞き取りにくく感じる程度である。
まだ聞こえている方の耳の聴力が下がるということは、私にとっても
少し考えものだったようで、担任の先生と相談していく中で、クラス
メートに聴力が下がったことを説明することになった。
けれど、相変わらずで、「少し聞こえが悪くなった」ことしか
言えない。どれくらい聞こえにくいのかも、どうしてほしいのかも、
何も伝えられない。
話しているうちに、だんだん自分が惨めになっていくような気がして、
泣きそうになってしまった。小学校6年生の時と同じだ。
ぐっと涙はこらえたけれど、もうこんな思いはしたくないと
思い、「もう自分の耳のことは話さない」と決心した。
それ以来、高校を卒業するまで私は、自分から聞こえのことを
話すことはなかった。中高一貫の学校だったため、友達もほとんど
変わらない。だから、高校卒業までずるずると私の頑なな決心は続いた。
もちろん先生方には難聴について伝えていたけれど、座席の位置の
配慮以外は特にお願いすることもなかった。
先生方も対応に悩まれていたのかもしれないと今更ながら思う。
なんとなく、先行き不安な中学校時代の始まりである。
ただ、聞こえないことを伝えていなくても、日常生活は淡々と
過ぎていく。授業を受け、友達とおしゃべりをし、部活動にも参加する。
「普通」に中学校生活を楽しむことはできていた。
そんな毎日に少しだけ変化が訪れたのは中学1年が終わる頃。
地元の病院に見切りをつけた両親が、思い切って私を関東の病院に
受診させることにした。そこで、私はある1人の先生に出会うことになる。
私の人生の中での転機の1つとなった貴重な出会いである。
この運命的?!なお話についてはまた次回にまわすことにする。
20代。(おそらく先天性の)両側進行性感音難聴である。 難聴が発覚したのは、
小学校2年生の時。発覚時の聴力は、右耳が90dB,左耳が45dB程度。そこから
徐々に聴力が低下し、2014年時点では、右耳が115 dBスケールアウト、左耳が
90dBである。ろう学校への通学経験はなく、大学を卒業後、医療系職の資格
取得を目指して専門学校へ進学。その後、障害に関わるお仕事をしている。
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