6年生になり、小学校生活も終わりに近づいてきた頃、担任の先生からこんな提案があった。
「みんなの前で1人ずつ自分のことを話してみよう。」
さらに先生は、
「○○さん(私のこと)のお耳のことだってみんな知りたいしね!」
と加えた。
暗黙の了解のように、私が話すことは自分の聞こえについて、となった。
その時は、「そっか、耳のこと話すのかー。」と、特に何とも思わなかったけれど、
今となってみれば、先生は本当に大きなきっかけをくださったと思う。自分の耳のことに
ついて話すことは、私が覚えている中ではきっと、この時が最初の経験となった。
発表当日。
先生の更なる提案で、自分達の発表はそれぞれカセットテープに録音されることになった。
自分が何を話したか、詳しいことは忘れてしまったけれど、右耳が聞こえないこと、友達に
助けてもらったことなどを話したような気がする。
そして、話しながら涙がぽろぽろこぼれていた。
当時、同じクラスには、心臓に重い病気を抱えた子(Aちゃん)もいた。その子も自分の
病気について話し、やっぱり私と同じように泣きながら話していた。
私とAちゃんに共通していたのは、「~ができない」ということしか言えなかったこと。
「耳が聞こえない」「運動ができない」「△△は食べちゃいけない」……
あの時は、なんだかよく分からない悲しい気持ちがこみ上げてくるばかりだった。
「これはできないけれど、これはできる」
「これはできないけれど、こうすればできる」
こういうところまで考えられていたら、また捉え方も変わっていたのだろうなぁと思う。
そして、こういうことが考えられるのも、障害受容の1つだと、私は考えている。
6年生の私とAちゃんは、2人ともまだまだ自分のことを知らなかった。
これから知り始め、考えていく段階だったのかもしれない。
これが妥当な時期なのか、遅すぎたのか、あるいは早かったのか、は分からない。
ただ、この経験を通して、今、はっきりと言えるのは、「これはできないけれど、こうすればできる」と
いうようなことを一緒に考え、支えてくれる存在が、子どものうちから必要だということ。子ども1人では
そんなことはなかなか難しい。自分が何たるかを、周りの人から教えてもらいながら、少しずつ
自分を受け容れ、子どもは成長していくと思うのだ。
さて、この発表のエピソードにはまだ続きがある。
自分の発表を録音したカセットテープは、それぞれに渡され、タイトルをつけることになっていた。
そこで私がつけたタイトルは、
「自分の障害を乗り越えて」
今思い返すと何とも恥ずかしい。きっと、障害を扱ったテレビ番組か何かに影響されてこんな
タイトルをつけたのだろう。自分の障害のことを全くと言って良いほど何も分からなかったのに、
タイトルだけは一人前。子どもらしいと言えば子どもらしいのだが…
ああ、また恥ずかしくなってきた。
ちなみに、今の私が「障害を乗り越える」と言うかと問われたら、それは否である。
乗り越えるものではなく、常に自分と共にあるものだと思うから。
私から「聞こえないこと・聞こえにくいこと」をとったら、私ではなくなる気がするから。
こう思えるようになったのも、様々な経験を積み重ねた上での結果である。(というとなんだか偉そうに
聞こえてしまうが…)
意味も知らずに「障害を乗り越える」なんて言っていた12歳の私から、今の私を見たら大きな
変化だなぁと自分でも思う。そしてまた、これからも自分の聞こえと向き合い、考え続けながら、
受容を深めていくのだろう。
ひとまず、小学校時代のエピソードについてはこれにて完結とし、次回からは中学校時代の
エピソードに移る。中学校になると、思春期の複雑な心情も絡んできて、悩みは大きくなったよう
に思う(今振り返るとおもしろいけれど)。またしばらくお付き合い願いたい。
20代。(おそらく先天性の)両側進行性感音難聴である。 難聴が発覚したのは、
小学校2年生の時。発覚時の聴力は、右耳が90dB,左耳が45dB程度。そこから
徐々に聴力が低下し、2014年時点では、右耳が115 dBスケールアウト、左耳が
90dBである。ろう学校への通学経験はなく、大学を卒業後、医療系職の資格
取得を目指して専門学校へ進学。その後、障害に関わるお仕事をしている。
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